PROJECT STORY 03
ingシリーズ
さらば、
予定調和のイスづくり。
2017年、画期的なオフィスチェアが誕生した。その名は“ing”。360°自由に動く座面を搭載し、座りながら体を動かすことができる。まるでバランスボールに乗っているような感覚の座り心地は世間を驚かせた。“ing”は、在宅ワーク用の“ingLIFE”、ハイエンドの“ingCloud”へと進化。通常とは異なる開発プロセスや、イスではなく「座る」を追求する思想など、これまでにないチャレンジを積み重ねてきたプロジェクトの軌跡を追う。
さらば、
予定調和のイスづくり。
2017年、画期的なオフィスチェアが誕生した。その名は“ing”。360°自由に動く座面を搭載し、座りながら体を動かすことができる。まるでバランスボールに乗っているような感覚の座り心地は世間を驚かせた。“ing”は、在宅ワーク用の“ingLIFE”、ハイエンドの“ingCloud”へと進化。通常とは異なる開発プロセスや、イスではなく「座る」を追求する思想など、これまでにないチャレンジを積み重ねてきたプロジェクトの軌跡を追う。
PROJECT MEMBERS
-
木下 洋二郎
グローバルワークプレイス事業本部 ものづくり開発本部 1Mプロジェクト
1990年入社。大学でデザインを専攻。入社当初からイスやテーブルのデザインを担当。デザイン室を立ち上げた後、デザインと技術を合体させた革新センターへ。現在は“ing”を中心とした先行開発チーム“1Mプロジェクト”のリーダー。
-
前田 怜右馬
グローバルワークプレイス事業本部 ものづくり開発本部 デザインセンター プロダクトデザイングループ
2017年入社。大学でデザインを専攻。入社3年目まで革新センターでプロダクトデザインのほか、横断的に家具デザインの色、素材、仕上げの統括業務などを担当。2019年から“ingLIFE”の開発へ。2026年から現部署へ。
FLOW
-
2014年
革新センター発足 デザインと技術が合体して先行開発
-
2017年
“ing”発売
-
2021年
“ingLIFE”発売
-
2025年
“ingCloud”発売
-
マーケット起点から
モノ起点へ、
開発プロセスから変えよ。ドイツで開催される国際的な家具の見本市“オルガテック”。その東京開催にあたる“オルガテック東京2025”で、コクヨは“グランプリ”と“出展者が選ぶベストブース賞”をダブル受賞した。ブースの主役は“ingCloud”と名付けられたオフィスチェア。雲のようにふわふわで、“座る”というよりも“まとう”という言葉がぴったりの座り心地に、来場者たちは驚きの声をあげた。
“ingCloud”の源流となる初代“ing”が発売されたのは2017年。イスでは当たり前のようにバネで座り心地を制御するが、“ing”はちがった。前後左右360°ブランコのように揺れるメカを搭載。重力で自由に動く画期的な構造で、バランスボールともロッキングチェアともいえる座り心地は、イスの常識を変えた。
通常の発想では生まれなかった“ing”。どうやって常識の壁を打ち破ってきたのか。“ing”シリーズすべての開発に携わってきた木下は、ポイントの一つとして「開発プロセスの変革」を挙げる。
「通常のものづくりは、マーケティングから商品企画に落とし込んで開発します。確実なプロセスを踏むことで、しっかりと売上をつくることは大事です。ただ、このプロセスだとなかなか枠からはみ出ることはできません。
“ing”は、まず先行して技術的な要素開発を行い、プロトタイプをどんどんつくっていきました。つくりながら“これはどんなマーケットに訴求できるか”とか、“マーケット観点から商品は変えるべき”など、ものづくりとマーケットを行ったり来たりする。その方が、新たなマーケット価値をつくり出せると考えたのです」。
“マーケティング起点”から“モノ起点”の開発へ。これらを可能にしたのが“革新センター”の存在だ。“革新センター”は、エンジニアとプロダクトデザイナーを合体させた組織であり、その名の通り、革新的な製品開発を行うために木下たちが2014年に立ち上げたものだった。
-
イスのセオリーを捨て、
座って座って座りまくれ。木下のキャリアは、イスづくりの歴史とも言える。
「入社5年目のとき、腰痛をわずらったのをきっかけに調べたところ、私の背骨はS字が強くて普通のイスが合わないことが分かりました。私にもフィットして、多くの人にも座り心地のいいイスをつくりたいと思ってチャレンジしてきましたが、なかなか思ったようなイスができませんでした」。
理想のイスをつくるために。開発プロセスの変革とともに木下が決断したのは、いったんイスづくりのセオリーから離れて、“座る”という行為を根本から見直すことだった。
人間工学やスポーツ工学はもちろん、ヨガ、ピラティス、座禅などさまざまな“座る”ことについて体感と理論を行き来しながら、要素開発やデザインに反映。いくつものプロトタイプを製作し、実体験を重ねていった。
「自分もメンバーも、とにかく座って座って座りまくりました。データや理論だけでは座り心地は判断できないですから」。
そんなあるとき、ハッとする光景に出会う。
「起き上がりこぼしのように重力で揺れて戻るプロトタイプを社内に放置していたら、関係ない社員がそのイスに乗って楽しそうに揺らしているんです。それを見て“そうか、人って楽しければ勝手に体を動かすんだ”と」。
オフィスでの疲れは、体を動かさないことからくる場合が多いといわれる。オフィスチェアとして気軽に体を動かすことができれば、働く人の疲れを軽減できるのではないか。
「通常のイスのように調節機能で人に合わせるのではなく、調節機能などなくして自由に体を動かしたくなるイスをつくればいいんだ、と」。
“揺れ”を、どう具現化してイスに取り入れるか。ときには夜中に公園のブランコに座りながら、ときにはロッキングチェアを揺らしながら、“観察する”“気づく”“練り上げる”“検討する”というサイクルを回していく。そうして何度も試行錯誤をしながら、たどり着いたのが、360°ブランコのように揺れる“グライディング・メカ”だった。
-
オフィス不要のコロナ禍で
“ing”はどこへ行くのか。2017年、グライディング・メカを搭載したオフィスチェア“ing”を発売。バネを使わず、自重で360°自由自在に動くという新しさは世間の注目を集め、その揺れ心地に圧倒された。また、世界的なデザインアワードをいくつも獲得した。
束の間の喜びを味わった後、とどまることなく次のチャレンジへ。翌年には、“ing”をさらに進化させるべく2つの方向で次の開発がスタート。その1つが会議室用“ing”だ。
ところが2020年、新型コロナウイルスの感染拡大が起こった。オフィスへの出勤が規制され、在宅勤務が格段に増えていく。これを機に会議室用を“在宅ワーク用”へと方向転換。2019年から“ing”シリーズの開発に加わった前田は当時を振り返る。
「家とオフィスではどう違うのか。あらゆるオフィスチェアをいくつかの家庭に持ち込んで、動画撮影やインタビューを実施。デザインや機能、座り心地など徹底的に検証していきました」。そこから見えてきたのが、オフィスチェアとは違い、ゆっくりと安定した揺れ方やインテリアに合う優しいデザイン性が必要なことだった。
「デザインではダイニングにも合うように、背もたれに木を使いました。オフィスチェアとしてはかなりチャレンジングです。また家庭には5本脚はじゃまになるのでキャスターなしの4本脚へ。脚先の丸みなど細部にこだわりました(前田)」。
一方、ゆっくり安定ある揺れを実現するために初代“ing”とは全く違うメカづくりにも挑んだ。しかし揺れの実現は非常に難しく、試行錯誤の連続だった。結局メカの開発には4年の時間を費やした。
試行錯誤の末、ゆっくりな動きを実現する「1段起き上がりこぼしメカ」にたどり着いた。
思わぬ発見だったのは、在宅ワーク用にもかかわらず、子どもたちの反応がすこぶる良かったことだった。前田はその光景を見て「仕事はもちろん、ご飯を食べたり、勉強したり、ゲームをしたり。“働く”だけじゃなくていろいろなことに対応できる。それが“ing”の新たな進化なんじゃないか」。そう感じたという。
リアルなユーザー体験をもとに新たな進化を遂げた“ing”第2弾は、“ingLIFE”と名付けられ2021年に発売。リビングに調和し、楽しむワーキングチェアとして根強い人気を誇っている。
-
人がイスに合わすの
ではなく
イスが人に合わせる。さて、初代“ing”発売後、もう1つの方向性として目指したのがフラッグシップモデルの開発だった。それが冒頭でも紹介した“ingCloud”だ。
開発当初は“体を大きく動かせるing”という発想だったが、“ingLIFE”のヒット検証から、“より安心してリラックスできる動き”へと開発の方向を転換した。ターゲットは、例えば1日中座って作業しているようなプログラマー。44名のエンジニアにプロトタイプに座って作業してもらい、動画撮影やインタビューを実施。時間をかけて検証した。
「彼らは長時間座っているので、頻繁に体を動かす前提で設計をしていたんです。ところが観察しているとほとんど体を動かさない。“やっちまったな、ぜんぜん動いてないよ”と焦りました(笑)。しかし、話を聞いてみると“すごく動きましたよ”とか“かなりイスが体についてきていいですね”という反応でした(前田)」。
そうか、人がイスに合わすのではなく、イスが人の動きについてきてくれる。これが“ing”のさらなる進化であり、“ingCloud”なのだ。この発見はターニングポイントだったと木下は言う。そこから、人が無意識に行う微細な動きに、イスが寄り添い、姿勢が保たれるようにするための設計を詰めていった。
「大きな変更ポイントは、グライディング・メカを座面だけでなく背もたれや肘にも配置して、柔軟に可動できるようにしたこと。また従来のような背もたれの左右にあるフレームがありません。体を包み込むような体感を得られるよう、ハンモックみたいにメッシュで構成しています。この2つの掛け合わせで、“雲のような座り心地”を実現したのです(前田)」。
開発はどこをとっても一筋縄ではいかなかった、と前田は振り返る。
「とくに背もたれのメッシュは大変でしたね。どの位置でどんな強さでメッシュにテンションをかけるか。数mmでも変わると体感がぜんぜん違ってしまう。量産化しても大丈夫な再現性も必要になる。何度も何度も座って、調整を繰り返しました」。
イスの評価に、平均点など求めない。“座るプロ”である開発メンバーだけで、全員が納得するまで徹底的に議論しながら決めていった。
-
人がクリエイティブに
働くために
何ができるだろう。2025年、“ingCloud”は、冒頭のように華々しいデビューを飾り、エンジニアなどハイエンドなイスを使っていた層から、注文が相次いでいるという。
木下は、「イスは単なる道具ではない」と話す。「長時間座ることによる腰痛や不調に悩まされず、自由に挑戦できる。結果、“何か新しいことに取り組んでみたい!”という気持ちを自然と湧き起こすことができれば、それが“ingCloud”の存在意義になると思います」。
2017年の“ing”発売から9年。体を動かすイスから、体にまとうイスへと進化を遂げてきた“ing”シリーズ。この先に目指すものは何だろうか。木下は「メンバーそれぞれだと思いますが」と前置きをしながら、次のように話す。
「さらに“体の負担を減らし、人がもっとクリエイティブに働くには何ができるか”をテーマとして追い求めていきたい。その先にあるのは“ing”ではないかもしれないし、イスではない他のアイテムの可能性もあります」。
前田は「揺らす、以外の方法があるかも」と、“ing”の先を見据える。
「もっと異次元の座り心地を目指して、動かし方が正しいかどうか自分たちで問い直すフェーズに入ってくるでしょう。その際、“揺らす”以外の方法もきっとある。それが楽しみだし目標になると思います。揺らした人間しか、揺れを止めることはできないと思うので、壮大な絵を描いていきたいですね」。
“イス”ではなく、“座る”を。マーケット起点ではなく、モノ起点で体験を重視しながら未来を描いていく。そのチャレンジは、好奇心と当たり前を疑うことから、いつも始まる。